「ぼかあ、もういいんですよ」
水面にぼんやり浮かびながらセシルがつぶやく。
「ぼかあ、もういいんです」
陛下のセシルとは明らかにセリフが違う。
表情はうつろで、股間は隠したままだ。
むりやりシリアルのパンツを脱がそうとしたら、指をひっかかれた。
「いってー、ああっ血が出た!」
セシルは水の中に潜って、毛虫でも見るような目で俺を見下している。
「ああ、そうかい。お前がそういう態度なら、こっちにだって考えがあるぞ」
俺はバロン川にかかる橋の上に立っていた。
手には水槽が抱えられ、これから中身を流す所だ。
「何か言い残すことは?」
「・・・ぼかあ、もういいんですよ」
水槽を力いっぱい傾けようとした時、背後から声をかけられた。
「ちょっと君!君!悪いセシルを捨てようとしているのか!?」
「はい」
振り向くとそこには灰色の布で顔を隠した、見るからに怪しい男が立っていた。
「捨てるならお兄さんにくれ」
「・・・でも、こいつひっかくよ?」
「ヒャッホー!抵抗するくらいがちょうどいい映像が撮れるんだよ!
今まさに最強のゴルベーザが手に入った所なんだ。
君もズボンを脱ぎたくなったらお兄さんのスタジオに遊びに来たまえ!きれいに撮ってあげるよ」
あやしいお兄さんはそう言って俺の手から水槽を取り上げ、名刺を渡してさっさと行ってしまった。
名刺には「スタジオエブラーナ」と書かれている。
水槽の中のセシルは連れ去られ、見えなくなるまでずっと助けを求めるような目で俺を見ていた。
「ああ、それは裏ビデオの撮影所だよ、カイン。」
父上が5番アイアンを磨きながら言う。
「お父さんも何本か持っているが、なかなかアングルが通好みだぞ。
まあ、お父さんはゴル×セシものには興味ないが、悪いセシルの使い道といったらそれくらいしかないからなあ。」
俺はショックだった。
父上が裏ビデオ業界に詳しいことにもショックだったが、別れ際のセシルの表情が忘れられなかった。
俺がてきとうに育てたせいで、何の罪もない彼は闇の世界に売られてしまったのだ。
ゴルベーザのレシピ
「月夜の晩に降った雨水を集めます。バーボン20ml、毒蛾のりん粉0.5g、オオワライタケの胞子0.1g、狼の毛玉1コを入れてよくかき混ぜます。
卑猥な言葉をかけてあげると最強のゴルベーザになります。
セシルと同様に、特に役には立ちません。」
「スタジオエブラーナ」はバロンの下町の治安の悪い裏通りにあって、スタジオビルの地下に通じる階段は冷たくジメジメしていた。
「おっ、来たのか君。お小遣いが欲しいんだな。セシルも今がんばっている所だよ。」
灰色の覆面男が照明を直しながら言う。
「どけ!」
俺が男を押しのけると部屋の中心には大きな水槽があって、中でセシルとゴルベーザが争っていた。
ゴルベーザはとてもいやらしい目つきでセシルのシリアルを食べており、セシルは顔を真っ赤にして抵抗している。
「何やってんだ、このオヤジー!」
俺は思わず水槽に腕を突っ込んでゴルベーザにデコピンを数発食らわせ、セシルから引き離した。
「いいですともー!」と叫びながら男は反撃してきたが、10センチの男相手に俺が負けるはずがない。
セシルを水の中からつまみあげると、彼は「見捨てないでー」と叫びながらしがみついてきた。
細い腕と冷たい肌の感触が伝わってきて、俺は初めてこいつを守ってやりたいと思った。
「カインが悪いセシルなんか育ててるせいで15打も叩いてしまったんだ」
「父上・・・」
家に帰ると父上が腐っていた。悪いセシルを飼ってもいいですかとは聞けなかった。
服の中のセシルがぴくっと動いたように感じる。
自室に戻って彼をコップの中に放り込むと、青白い肌は俺が触った所だけ火傷したように赤くなっていて、身動き一つしない。
人が触ると魚は火傷するというが、死んでしまったのだろうか。
水差しの水を勢いよく流しこむと、驚いたように目を開けた。
「冷たい!」
「わっ、ちゃんと喋れたのか、お前」
「父上は冷たいぞっ、お前はいらない子かっ」
死んだかと思っていたセシルが目覚めたとたん憎憎しげに口をきいたので、心配して損したと思った。
彼はぷかぷかとコップの水上に浮かび、いつの間に取ったのか俺の手袋を着ている。
「ああ、俺はいらない子なんだよ。父上は次の全バロンオープンのことしか考えてないからな」
むっすりとそうつぶやくと、意外にもセシルは悲しげな目をして言った。
「カインはいらない子じゃないぞ、カインがいないとぼくは死んじゃうから」
すねたような顔をして水の中に潜って行ったセシルを、初めて可愛らしいと思った。
その晩からセシルの様子がおかしくなった。
やはり俺が触ったせいなのかもしれない。皮膚は硬くロウのようになっていて、呼吸をしていないように見える。
コップを傾けてみると、底の方で丸まっていた彼がカラカラと音を立てた。
「月夜に降る雨水以外の水、水道水、海水、下水などに長時間漬けると変質することがあります。」
変質ってなんだ!?
レシピをいくら読んでも分からなかった。
あいにくバロン地方は晴天続きで雨が降る気配がない。
俺は何日も眠らず雨をまち、とうとう降り出した時にはバケツを抱いて走り回った。
「セシルが助かるぞ!まってろ今・・・」
その日が新月の夜だということを俺はすっかり失念していた。
セシルをバケツの中に入れると、固まっていた皮膚はたちまちひび割れ、破れて、中からひと回り大きくなったセシルが飛び出してきた。
「やだカイン・・・見ないでよ、そんなに・・・」
セシルは脱皮したのだった。