あれから10年の歳月が流れた。
セシルは順調に脱皮を重ね、今では普通の人間と同じぐらいの大きさになっている。
大きな水槽が手に入らなかったので、庭先を掘って25メートルほどのプールを作り、彼の部屋にした。
「美味いか、セシル」
セシルはカリカリと音を立てながら生の魚を頭からかじっている。
今ではセシルは近くの海まで歩いて狩りに行けるようになっているが、調子の悪い日は俺がこうして魚屋で食料を買ってくるのだ。
「すまない、ぼくのせいで・・・君は魚のにおいが嫌いなのに」
「気にするなセシル。風邪でもひいたんだろう、しばらく食事は俺が運んでやる。」
「あてにしてるぜ、カイン」
「フッ、まかせておけ」
このごろセシルの具合がおかしい。
平均寿命が2年半のところを10年も育ちっぱなしなのだ、おかしくて当然とは思うが。
見た目は単に巨大化しているだけで、若々しさには変わりないのに、どこか
しょぼくれて見える。
「今年の全バロンオープンはいつから?」
「明日から」
「・・・ふうん」
俺は亡き父の遺志を継いでプロ竜騎士になっていた。
「・・・さびしいよ、カイン」
「俺だって、お前とはなれたくない」
ついでに俺たちはそういう関係になっていた。
「せめてぼくが昔の大きさだったら、コップに入れて持ち運びできたのに・・・」
「よせセシル、それじゃ何もできんじゃないか」
「今だって何もできないじゃない!」
セシルはひきつったように叫んで、プールの端まで泳いでいった。
「悪いセシルを人間にする方法?」
プロ竜騎士仲間のフライヤが眉をひそめる。
「悪いセシルは川に捨てるのが習わしじゃ。あれは人を惑わす」
全バロンツアー中は対戦相手とあまり口を利かないのが普通だが、滞在するホテルのレストランで彼女を見つけ同席した。
朝食はビュッフェ式で、俺はコーヒーとトーストとスクランブルエッグ、シーザーサラダに揚げた芋だったが、フライヤは白米とオクラの味噌汁と納豆を選んでいた。
軽い話題のつもりだったが、フライヤは真剣に答える。
「その昔、人間に恋した悪いセシルがいた。」
彼女は丁寧に納豆をかき混ぜる。何も加えず右に305回。
「悪いセシルは人間になるため暗黒の神々と取引をした。すると神々はセシルを人間にするための条件として試練を与えたのじゃ。」
しょうゆを数滴ずつたらして左に119回。北大路魯山人のレシピだ。
「しれん?」
「真っ黒な鎧に身を固め、ひとことも口を利いてはならん。それでも恋する相手がセシルに気付きキスをしてくれれば、悪いセシルはただのセシルになれる。」
「それで、どうなったんだ?」
「結局そのセシルは相手に気付いてもらえず、元の綿の脳みそにかえったと聞く。」
ねずみが上品に納豆を食べる珍しい光景を見ながら俺は考えた。
セシルにそんな危険は冒してもらいたくない。
その一方で、セシルに指一本触れられないことに絶望を感じ始めていた。
俺が触ったら、彼の肌は焼けてしまう。
それよりも何よりも、このまま脱皮を続けたら彼はどこまで大きくなるんだろう。
ため息を一つついて空を見上げると、朝だというのに白い月がまだ見えていた。
月に向かって願い事をする。
「悪いセシルをただのセシルにしてください。」
全バロンオープンは初日から悪天候にみまわれた。
逆風が強く、飛距離は期待できない。
こんな時は安定感のあるアイアンを使うに限る。
「1番アイアンを。」
「・・・・ガチャン」
ふと目をやると、いつものキャディーさんがいるはずの場所にぶっそうな鎧に身を固めた何者かが立っていて、その手には1番ウッドが握り締められている。
「誰だお前は!アイアンをよこせよ!」
他のプロ竜騎士たちが次々に飛び立っていく中で俺はイラつき、黒い鎧の男を怒鳴りつけてしまった。
それでも黒い鎧は俺に1番ウッドを押し付け続ける。飛行準備の制限時間も近い。
「くそ!お前、覚えてろよ!」
俺は鎧から1番ウッドを奪うように取り上げ、ピン目指して飛び立った。
他の選手たちを追い抜いて高度はぐんぐん上がって行くが、強風にあおられて隣のホール近くまで流されてしまった。
・・・このままだと打ち直しだ。
必死になって体を曲げ、体勢を立て直していると不意に体が軽くなって驚く。
突風が背後から襲いかかったのだ。
「追い風が来た!」
「あー、ちくしょー、俺もウッドにしとけばよかった!」
今年のバロンオープンは優勝かもしれん。
賞金でセシルに新しいプールを作ってやろう。
眼下ではホール半ばに降り立ったライバルたちがうらやましそうに俺を見上げていて、風に乗った俺は軌道を直しながらピンに近づいていく。
「凄い・・・ツイてる!」
あの黒い鎧は風読みの天才だ。後で謝らないとな。
それにしても、あれほど風が読めるとは一体何者だろうと考え、ふと思いついた。
そして俺は吸い込まれるように深々と1番ウッドをカップに突き立てる。
「ホールインワンだ!」
周囲から歓声が上がったが、俺には聞こえなかった。
「セシル!」
俺が駆けつけた時には黒い鎧は地面に倒れて、人だかりが出来ていた。
「どいてくれ!」
急いで兜の顔当てを引き上げると、中からはやはりセシルの顔がのぞいた。
「やっぱりセシルだ!お前、どうして・・・」
「だってぼく・・・」
彼の頬から半透明の液体があふれ出す。
「カインに触りたかったんだ」
ぼろぼろとセシルの顔が溶け出し、崩れていくので思わず唇を押し付けた。
「もう遅いよカイン。でもぼくだって気付いてくれてありがとう。
ぼくね、毎日カインのために空と風を読む練習していたんだ」
「セシル・・・!」
握った手甲の重みが消えていく。セシルは綿にかえったのだ。
「もう諦めるのじゃ、カイン」
フライヤの声が遠くから聞こえる気がする。
「・・・お前は取り返しがつかないことをした」
ああそうさ、俺はセシルに気付かなかった。
父上と同じ、身勝手な男さ。
「・・・駄目じゃ、この男、気が抜けた顔をしておる。」
「どうしよう、カインずっと鎧と握手してるよフライヤ」
なんだこの甲高い声は、頭に響く。
「無理もない、自分のしでかしたことの大きさにようやっと気付いたのであろう」
そうだ、放っておいてくれ。
シャツの胸元に小動物がぶら下がってくるのを感じるが、もうどうでもいい。
このまま鎧とともに朽ち果てていきたい。
胸元の小動物がキンキンと喋った。
「じゃあ、皆さんもうホテルに帰ってください。カインはぼくが見てるので」
「カインがもう少し早く気付けばお前も原寸大だったのになあ・・・」
「ではさらばじゃ、セシル殿」
「はい。」
「セシル!?」
シャツをぐぐっと引っ張ると、子猫くらいのサイズのセシルがえりにぶら下がっていて、きょとんとした顔で俺を見ていた。
「うん・・・どうも・・・よろしくカイン」
トラブルシューティングNo.10・・・悪いセシルがただのセシルになってしまった場合
「すみやかに川に流すか、あるいは一生めんどうを見てあげてください」
(2008.9.6)
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