「旦那様・・・僕はそんなに早く歩けません」
「ダメだ、人が来る。急げセシル」
「あそこだ!あいつが俺を縛り上げたんだ」
チッ。
本物の死刑執行人が思いのほか早く発見されたらしい。
俺は、バロンの地下で目覚めたばかりのセシルを連れて逃げていた。
彼はまだ青白く、生気が戻ったとは言いがたいほどだったが、ほとんど俺に引きずられるようにしてついてきている。
なんとか追っ手をまいて屋敷についた時には、空が白み始めていた。
「とにかく、風呂に入れ。お前、汚ねえぞ」
「・・・すいません」
死刑囚は月に何度風呂に入れてもらえるんだろう。
セシルの髪はごわごわしていて、あちこち汚れていた。
「ちゃんと洗えよ」
バスルームに彼を押し込んで、ホッと一息ついた。
ここには誰もいない。
俺たちのほかは。
この屋敷にセシルを隠して暮らすこともできるが、俺の気持ちは決まっていた。
「旦那様・・・あの・・・使い方が分かりません」
まったく。
手のかかる。
考えてみれば男同士だ、何を遠慮することがあろう。
浴室に入ると、裸のセシルがおびえたように立っていた。
「ほら、ここをひねったら湯が出る。俺が洗ってやるからじっとしてろよ」
ごしごしとシャンプーしていると、セシルの髪がとても柔らかいことが分かった。
こんなに力を入れちゃ駄目だ。
痛かったかもしれない。
言われたとおり、じっと座っているセシルが可愛らしかった。
無数の傷と、うっ血が残る背中。
この汚れが取れるのはまだ先だろう。
「終わったぞ。この服を着るんだ」
貴族がよく着るようなシャツとパンツを用意していた。
地味だが、見る人が見ると価値が分かる。
どこへ行っても貴族で通じるように。
「ありがとうございます・・・こんなにしてもらって」
風呂に入れたら、見違えるほど美しくなってしまった。
つやつやした銀髪とほんのり朱が差した絵画のような顔。
これでは目立ちすぎるかもしれない。
「しばらく寝室で休んでろ。腹が減ったら言えよ」
寝室に連れて行くと、セシルが服を脱ぎだした。
「なんだ?せっかく用意したのに、気に入らなかったのか?」
突然、彼が俺の首に腕を回してキスをしてきた。
義務的な、安っぽいキス。
「・・・何の真似だ?」
「あの・・・旦那様は僕を抱きたいのかと思って・・・」
「服を着ろ!」
カッとなって思わず突き飛ばしてしまった。
ベッドに崩折れるセシル。
俺の中にこんな激情があったなんて。
いつも冷めた目で生きてきた俺が。
乱暴にドアを閉めて自室に引きこもった。
あいつはこうやって生きてきたんだ。
エサをくれる相手には無条件で体を差し出す。
・・・ただ、それだけのことなのに。
自分のベッドに倒れこむと、疲労ですぐ眠り込んだ。
今日の夜の出発までに少しでも眠っておかないと。
「・・・もう俺は逃げられない・・・お前だけでも」
「嫌だよ、兄さん、独りにしないで」
・・・なんだこれは?
月の回廊に立つ俺とセシル。
・・・ああ、例の夢の続きか。
「・・・兄弟で愛し合うタブーを犯した以上、もう月では生きていけない」
「・・・兄さんが死ぬなら僕も死ぬよ」
小さな瓶を交互にあおる。
それが毒薬だということを俺たちは知っている。
「・・・生まれ変わっても俺のことを忘れないでいてくれるか?セシル」
「・・・うん、カインも僕を忘れないで」
回廊からは青い星が見えていた。
「・・・青き星へ・・・自由の国へ・・・行こう」
「・・・僕たちを縛るものが何もない所へ・・・」
・・・忘れないで。
・・・忘れないで、カイン。
「・・・ああ・・・っ」
苦しさで目が覚めた。
咽喉を焼く毒薬の・・・
ここが自分の屋敷のベッドだと分かるまでしばらく時間がかかった。
外は曇っているらしく、薄暗いままの自分の部屋。
遠くで正午を告げる教会の鐘が鳴っていた。
「あれは夢じゃない」
・・・記憶だ。