「セシル?」
「はい、旦那様」
客間に入ると、セシルはベッドに腰掛けていた。
開けた窓から吹き込む風にさらさらと髪をなびかせながら、町の様子を眺めている。
愛しさがこみ上げてきた。
以前愛した弟の横顔。
なぜ今まで気付かなかったのだろう。
「・・・俺を覚えているか?」
「はい、刑務所に慰問にいらしたカイン様です」
「それだけか?」
「あの・・・それ以前にお会いしましたか?」
セシルの見た夢は断片的で、ぼんやりとしていた。
兄の顔も覚えていないらしい。
夢の話をいくら聞いても、彼が思い出すのは幸せな記憶だけ。
「兄さんは優しくて、僕たちはいつも一緒にいました。一度なんか長老が僕たちを引き離そうとしたくらいで・・・
ふふ・・・こんな話を聞いてくれたのは、旦那様がはじめてです」
・・・あの時は、夜中に部屋を抜け出してセシルに会いに行ったんだ。
・・・俺たちは青き星が見える丘の上でいつも会っていた。
「お前の兄は、こんな顔をしていなかったか?」
「え・・・?」
セシルが俺を見つめた。
刑務所で再会したときと変わらない、澄んだ色の瞳。
でも、その眼は凍った石のようで、何の感情も読み取れなかった。
「似ているかもしれません・・・でも、旦那様が僕の兄のはずありませんから・・・
僕は貴族じゃないし・・・めっそうもないことです」
・・・何も知らないままのほうがいいのかもしれない。
辛い恋の記憶も、迫害された記憶も、セシルには必要ないものだ。
今世でこれだけ苦しませてしまった。
苦痛を思い出すのは俺だけでいい。
セシルはこれから幸せになるのだから。
「俺がもっと早く思い出していたら・・・」
・・・お前を守ってやれたのに。
「なぜ泣くのですか?」
「・・・トロイアで暮らしているお前を想像したんだ・・・森が嫌いなら海でもいい・・・
どこでも、お前の好きな所で俺と暮らしてくれないか」
「・・・旦那様・・・なぜそこまで僕を・・・」
言いながら、セシルが俺の胸に顔を埋めてきた。
「そんな風に言ってくれた人は初めてです・・・優しくしてくれた人も・・・。
義父さんはいつも僕を殴ったし、どこに行っても冷たくされた・・・」
「忘れろ・・・これからは俺だけを見るんだ」
重ねた唇も記憶のままだった。
セシルの涙が、俺の頬を濡らす。
覚えてる。
セシルの冷たい肌が熱を帯びてくる瞬間も。
「・・・旦那様は僕が好きですか・・・?」
「・・・ああ、はじめて人を愛することを知った」
汗に濡れて冷たくなったシーツの上で、セシルが満足そうに微笑む。
彼が小さな寝息をたてはじめ、白い月が俺たちを照らすまで、俺はずっとセシルを見つめていた。
もう二度と彼を失いたくない。
あれこれと遠い異国の地での暮らしを夢想した。
月の見える丘の上に立つセシルの姿を想像して、俺も微笑んだ。
「出発の時間まで、まだしばらくあるな」
書斎の机のことを考えた。
そこには2人分の切符が封筒に入って置かれている。
「オイ、カイン、いるか?」
ドンドンと扉を叩く音がして、セシルが飛び起きた。
「旦那様・・・」
「大丈夫だ、俺の叔父だ。ちょっと待ってろ」
服を着るのもけだるく、ガウンを羽織った。
まったく、こんな時に何の用だ。
「こんな早い時間から寝てたのかカイン、いい身分だな」
「何かあったのか?」
「国王陛下がお呼びだ、着替えて来い」
国王が・・・?
またパーティの誘いか?
イヤになるが、今不審を買われて探されては困る。
「セシル、早く着替えろ」
客間に取って返すと、セシルはすでに着替えを済ませて待っていた。
「ぼく、見つかったのですか?」
「心配するな、何でもない・・・とにかくお前は先に行け」
切符を彼に渡す。
「トロイア行きの夜行列車だ。駅の場所は分かるな?」
「旦那様は・・・?」
「パーティさ、すぐに抜け出して行くから」
ネクタイを締めながらスーツを探していると、セシルが後ろから抱きついてきた。
「あなたがもし来なかったら・・・?ぼく、もう1人になりたくない」
「セシル、着替えられないだろ、俺を困らすな」
そう言いながらも、自分の胸が熱くなってくるのが分かる。
「もし、俺が列車に間に合わなかったら、お前1人ででも行けよ。トロイアに俺の別荘があるから、そこで待ってろ」
「うん・・・待ってる・・・気をつけて、カイン」
別れ際にキスをした。
裏口から走り去るセシルの背中。
それが最後に見た彼の姿だった。
「さあ、行こうか、カイン」
「ああ」
叔父の運転する車に乗り込みながら、ぼんやりとセシルを思った。
・・・見つかるなよ。
「・・・叔父貴?なんか道間違ってねえか?」
バロン城の灯りが遠ざかっていた。
「すまん、カイン・・・俺を許してくれるか・・・?」
「え?」
朦朧と意識が戻った時には、俺は牢屋の中にいた。
なぜ、こんなことになったか、分からなかった。
「身の回りをキレイにしたかったんだな」
何の話だ?
見覚えのある看守がニヤニヤしながら言った。
「お前の叔父さんさ。国王の娘との結婚が決まったんだと。殺人犯の甥っ子がいちゃまずいよな」
「・・・そうか」
怒りも、失望も、何も感じなかった。
全部自分がまいた種だ。
それよりも、死囚房の鉄格子から漏れる月の光が俺を捕らえて離さなかった。
セシルはちゃんと列車に乗っただろうか?
月の見える丘の上で俺を待っていてくれるだろうか?
俺の体に再び毒が流し込まれた後もずっと。
同じ夢を見ながら。