オペラ劇場の5番ボックス席には、この先100年分の予約が入っている。

 

 

 

「その人の姿を見たことはないの、マリア?」

 

「ええ・・・」

 

私が知っているのは、彼の声だけ。

 

優しくて甘い。

 

 

「君に歌姫になってもらいたいんだマリア」

 

「なんのこと?私はただの脇役よ?」

 

その声はいつも舞台裏で聞いた。

 

初めて彼に声をかけられたのは14歳のころ。

 

群舞の一人でしかなかった私は、彼に見抜かれたことが不思議でならなかった。

 

 

「彼は素晴らしい教師で、憧れの人よ」

 

「マリアがうらやましいわ・・・あなた、最近ほんとに上手くなったもの。私も影という人に稽古をつけてもらいたい」

 

彼は、自分のことを影だと名乗った。

 

昼も夜も、私が望む限り稽古をつけてくれた。

 

「あなたは有名な歌手なの?」

 

「いいや」

 

「でも、そんなに上手く歌う人を知らないわ」

 

「ただの魔法だよ。君にも魔法をかけてあげる」

 

 

影は、舞台の中心に立つ私を見たいと言った。

 

影は、私に恋をしていると言った。

 

私を愛していると言った。

 

 

じゃあなぜ、姿を見せてくれないの?

 

 

団長が言う。

 

「マリアはもう、うちの看板だよ。」

 

そう、17になるころには私は歌姫に選ばれていた。

 

影の姿はまだみたことがなかった。

 

 

舞台が終わると、ときどき5番のボックス席から白い手が見える。

 

手は拍手してくれる。

 

・・・彼のことは、それだけしか知らなかった。

 

名前のとおり、影に隠れたまま出てこない。

 

「きっと、いつか出て来て、姿を見せてくれるわ」

 

いつのころからか、それが私の夢になっていた。

 

そして私にプロポーズするのよ。

 

 

 

「大変だ、さすらいのギャンブラーとやらがマリアをさらいに来ると予告してきたぞ!」

 

「そんな・・・」

 

今日は影がよく見に来る曜日だというのに・・・・

 

今日こそ、彼の顔を見られるかもしれないのに・・・・

 

 

 

「大丈夫よ、マリア。私が身代わりになるから、あなたは安全な場所にいて」

 

 

 

そう言った少女は、私にそっくりだった。

 

「なによ・・・・私より上手く歌えるはずないわ」

 

あなたなんかに、影に見てもらえる機会を奪われるなんて。

 

 

そうよ、私はギャンブラーなんか恐れてない。

 

舞台を奪われることの方が怖いの。

 

 

 

「団長に知られたら叱られるわよ、マリア。隠れてなきゃ・・・」

 

「いいのよ、ここは舞台裏だし、人はいっぱいいるわ」

 

「・・・・あの子、下手ね」

 

 

私は、カーテンに隠れて偽の私を見ていた。

 

下手で当然よ。

 

彼女は影の稽古を受けていない。

 

魔法もかけてもらってない。

 

 

それなのに。

 

 

「・・・ねえ、マリア、あれ・・・」

 

「うそでしょ」

 

 

5番ボックス席に彼がいた。

 

初めて姿を現したその人は、身を乗り出して偽の私を見ていた。

 

細くてきれいな男の人。

 

驚きで目を見開いているところまではっきりと分かった。

 

 

「私が歌っているときは陰に隠れてたのに・・・」

 

「マリア、大丈夫?」

私はただの身代わりだったの。

 

「彼が愛していたのは私じゃなかったんだわ」

 

「マリア、どうしたの?大丈夫?」

 

 

彼女こそが彼の歌姫で。

 

魔法をかけられていたからはっきり分かる。

 

私はただの身代わりだったの。

 

 

その日を境に魔法は解けて、私はただの歌姫になった。

 

もう、彼を待ったりはしない。

 

 

今でも5番のボックス席からは、ときどき白い手が見える。

 

手は拍手してくれる。

 

変わったのは私だけ。

 

私はただの歌姫になった。




(2008.4.29)


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